シェルビー・コブラ・デイトナ・クーペ(Photography: Michael Furman)
ボディは幅広タイヤに合わせて大きく張り出したオーバーフェンダーを装着。アルミ製のドア、フロントリッド、エンジンカバー、フレア状のグラスファイバーホイールアーチなどの改良が加えられた。また、サイドウインドウなどにはプレキシガラスが使用され、軽量化のためシャシーは肉抜き加工が施されている。また、前後バンパーは取り外され、代わりにリップスポイラーが取り付けられている。
1/24 グンゼ改造 シェルビーコブラデイトナクーペ 製作開始
ダブルウィッシュボーンサスペンションは設計を大幅に変更し、フロント10J&リヤ13Jのカンパニョーロ製ホイール&幅広タイヤを装着するために、コニの車高調整式サスペンションを採用している。ブレーキはガーリング製の大径ベンチレーテッドディスクに換装され、ステアリングラックをクィックレシオ化することで制動力とハンドリングを大幅に向上させている。
エンジンはフォード社が供給を拒否したことから社外のレーシングエンジンコンストラクターだったバド・ムーアに依頼。フォードのレーシングユニット・クリーブランド5.7L V8エンジンをベースに、特注のアルミニウム ヘッド、TRW鍛造ピストン、大容量オイルパン、チタンバルブを装備した。キャブレターは当初はホーリー製1150CFM4バレルキャブレターを1基備えていたが、のちにウェバー製2連キャブレター×4に換装された。その結果、最高出力は市販バージョンの178ps増しの508psとなった。
グンゼのデイトナコブラを久しぶりに手に入れました。高校生くらいの頃、新製品で買って作ったキットです。ヤフオクで購入しました。
このパンテーラGr.3をベースに、FIAグループ4(特殊グランドツーリングカー:500台以上生産した2座席以上のクローズドボディ車)規定に基づいて同じ年に製造されたのがパンテーラGr.4で、製造はフェラーリのレーシングカー製造に経験を持つ英国人エンジニアのマイク・パークスが担当した。
開発当初からパンテーラはモータースポーツへの参戦が考慮されていた。最初に開発されたレーシングモデルは、1972年に登場したプライベートカスタマーチーム用に製造されたGr.3で、およそ30台が製造された。このモデルは当時のFIAグループ3(量産グランドツーリングカー:1000台以上生産した2座席以上のクローズドボディ車)規定に従って、市販車両に6点ロールケージやレーシングバケットシート、消化器が追加され、強化カムシャフトと10Lに容量を拡大したオイルパン、ホーリーレーシング4バレルキャブレターなどのレース用パーツが追加された。
スーパフォーマンス製『シェルビー・デイトナ・クーペ』を取材しました。 ↓以下はスーパフォーマンスの公式HPからの転載です。
創業者アレッサンドロ・デ・トマソの数奇な人生……アルゼンチン出身の素寒貧なレーサーだった若者が、異国イタリアでデトロイトと強力なパイプを持つ富豪の令嬢のハートを射止め、嫁の実家から支援を受けてレーシングコンストラクターを起こし、さらにはフォードの資本を獲得して「フォードGT40の市販版」とも言うべき巨大なV8エンジンをミドシップに搭載したスーパースポーツを世に送り出した物語は、福野礼一郎氏や沢村慎太郎氏が執筆した名文があるのでここでは敢えて詳しくは触れない。今回はアメフェスの会場に持ち込まれたシャシー番号02874、8台製造されたパンテーラGr.4にのみ焦点を当てて語って行くことにしたい。
1970年代に少年時代を過ごし、あの「スーパーカーブーム」の洗礼を受けた人なら、デ・トマソ・パンテーラという存在には特別な感慨があるはずだ。そして、古くからの『OPTION』読者の方にはゲーリー・アラン・光永の名前とともに国内で初めて300km/hの壁を超えたマシンとして、この車名が胸に刻まれていることだろう。
MZP144R・京商 ASC MR-03N-RM シェルビーコブラ デイトナクーペ レッド
8台作られたパンテーラGr.4のシャシー番号は、02860、02858、02859、02861、02862、02872、02873、02874で、02874を除いてルマン24時間耐久レースやスパ・フランコルシャン1000km、ジロ・デ・イタリア、モンツァ1000kmなどの国際格式のモータースポーツに投入されている。
こうした希少なクラシックカーの場合、車両固有のヒストリーとその裏付けとなるシャシー番号によって金銭的な価値は決まるものだが、それらはあくまでも売買する際の価値基準であり、この車両の持つパフォーマンスや美しさ、魅力と言った「クルマが備えた本来の価値」を何ら毀損するものではないことを付け加えておく。これほどの貴重なマシンを間近でじっくり見ることができたのはまさに行幸であった。
昨年のSEMAショーで FORDのレーストラックを試乗させてもらった. シェルビー コブラ デイトナクーペですが横浜へ到着しました。
だが、今回アメフェスに展示された車両はいずれのシャシー番号でもない。展示車両の細部をよく検分すると、後年スーパーパフォーマンス社が製造したレプリカではないようだが、1960年代にレースで活躍した車両とは細部の意匠が異なる。WWRJのスタッフに尋ねると「本物」との答えが返ってきた。これは一体どう言うことだろうか?
ウォン警部のブログ記事「シェルビーコブラ・デイトナクーペCSX9000」です。
ラインオフしたシェルビー・デイトナ・クーペはプロトタイプを含めて全部で6台。シャシー番号はCSX2286、CSX2287、CSX2299、CSX2300、CSX2601、CSX2602となる。そのすべてが現存し、コレクターや各地の博物館の手で大切に保管されている。
現代の技術で蘇った往年の名車 シェルビー・コブラ・デイトナクーペ
シェルビー・アメリカンではハードトップを装着するなどの対応を採ってはいたが充分ではなく、スポーツカー世界選手権への参戦を前提として、1964年に同社はピート・ブロックがデザインを手掛けたコブラのクーペバージョンを開発する。シェルビー・デイトナ ・クーペの誕生であった。
60年代にデイトナ2000㌔で優勝したシェルビー・デイトナを現代の技術を投入して9台のみ再販した公式車。公道仕様車はそのうち3台のみ。
軽量・コンパクトなボディにパワフルなV8エンジンの組み合わせによるパフォーマンスは圧倒的で、シェルビー・コブラはアメリカ国内で活躍した。だが、ヨーロッパでのレースに参戦するにあたり、パフォーマンス的にはライバルのフェラーリやアストン・マーティンに勝るとも劣らないものの、オープンボディのため空力では大きなハンデを抱えていた。とくにル・マン24時間レースでは全長6km (当時)にも及ぶミュルサンヌ・ストレートでライバルとの差が開いた。
シェルビー・デイトナ・コブラ・クーペのエンジンサウンドです! アメ車特有のV8 SOHCの排気音もイイですね.
後日、資料を漁ったことで謎は解けた。この車両のシャシー番号はおそらくはCSX2469だろう。その出自は1990年代前半にオリジナルのコブラ・ロードスターをベースにシェルビー・デイトナ・クーペへと改造された車両のようだ。ただし、製造はキャロル・シェルビーの監修の元、彼のパートナーであり、コブラの専門家でもあるマイク・マクラスキーが手掛けている。どうやらシェルビーが自分用に作ったマシンらしい。
ブログ:シェルビー コブラ デイトナ クーペ用スターターモーター
こうした経緯から誕生したしたのが、英国製ACエースのロードスターボディにフォード製XHP-260(4.3L)V8エンジンを搭載したシェルビー・コブラであった。
その後、モータースポーツへの参加を前提にさらなるパフォーマンスを追求した同車は、1962年にエンジンをチャレンジャー289(4.7L)スペシャルV8に換装してFIAのGTホモロゲーションを取得し、1964年にはサンダーバード用に開発したエンジンを軽量・高性能化した427(7L)V8エンジンを搭載した。
シェルビーコブラ・デイトナクーペCSX9000. ウォン警部のブログ記事「シェルビーコブラ・デイトナクーペCSX9000」です。
1965年にデイトナ2000km、セブリング12時間耐久などに出場したゼッケン12号車のマシン
GT7 シェルビー コブラ デイトナクーペ 1964 ラグナ・セカ PS4
まだ制作中で色も塗られていない工場内のモデル。このクーペの写真を見て、あれ? と思った人はさすが。このマシンはシェルビーの手によってコンプリートされた唯一のディトナコブラで、他のモデルはすべてイタリアのカロッツェリア・グランドスポーツの作品である
シェルビー デイトナ クーペ SHELBY DAYTONA COUPE
翌1965年はワークスカーとしてガーズマン・ブルーのシェルビーアメリカンカラーに塗られ、2月のデイトナで総合6位入賞。3月のセブリングでも13位完走を果たした。ル・マンは欠席し、1965年はニュルブルクリンクに出場している(この時は12位)。
デイトナレースで宿敵フェラーリに勝つために作られたコブラクーペ
当時のグランプリの公式プログラムがある。しかしエントリーリストに酒井 正の名も、またデイトナコブラの名もない。レース出場車として紹介されていたのは三保敬太郎のエントリーしたACコブラロードスターの写真が掲載されているが、これは出走していない。酒井はグランプリのエントリー締め切り1カ月前というタイミングで出場を表明したそうで、プログラムの作成には間に合わなかったということであろう。
シェルビー デイトナ クーペ 入庫いたします。 シェルビー デイトナ クーペ ..
このアイディアは見事に結実し1964年のル・マンでは宿敵フェラーリ250GTOを打ち破り、総合4位、GTクラスのウィナーとなった。そんな貴重なマシンがチャンピオンを取った翌年の1966年に日本へとやって来たのである。第3回日本グランプリに突如として姿を現したデイトナクーペは、酒井 正(敬称略、以下同)のドライブで雨の予選こそ最下位に沈んだものの、スタートでその大排気量のパワーを活かし、ストレートで一気にトップに躍り出た。その後2位を走るもまだまだハイパワーマシンを御しきれなかったのか、レースではエンジンを壊してリタイアしたが、そのスピードの片鱗はたしかに見せつけた。
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まあ、スポーツカーと言ってもほぼレーシングカーという方が正しい。当時同じカテゴリーでレースをしていたのがフェラーリ「250GTO」。これを打ち破ってのチャンピオンなのだから価値がある。もともとロードスターのACコブラ(ハードトップ付き)でル・マンにエントリーしたシェルビーは、長い直線のトップスピードがフェラーリより劣ると判断し、当時シェルビーに在籍していたピート・ブロックに空力性能に優れたクーペボディのデザインを指示。結果出来上がったのがこのクルマだ。
モデル テクニカ コブラ デイトナ クーペ 1964年 ル・マン No.5
今回、アメフェスに姿を見せた02874は、パンテーラGr.4としては最終生産車であり、1973年のジュネーブモーターショーに出展された過去を持ち、製造された8台の中で唯一モータースポーツに参戦歴のないマシンだ。Gr.4としてのスペックを持ちながらロードゴーイングカーとして仕立てられており、過去ナンバープレートが付けられていたこともある。WWRJは同車に徹底的なレストアを施しており、新車のコンディションを今に残すパンテーラGr.4だ。そうした意味でも貴重な存在である。
モデル テクニカ コブラ デイトナ クーペ 1964年 ル・マン No.5 - ミニカー.
今回ご紹介するのは「デイトナコブラ」というクルマである。正式名称は(シェルビー デイトナ クーペ)と呼ぶようであるが、ロードスターの「コブラ」をベースにクラスのスポーツカーに仕立て上げたもの。年のマニュファクチャラーズのチャンピオンを獲得したマシンでもある。