第2回日本グランプリでの式場壮吉のポルシェ904GTSに1度だけながらスカイライン ..
(写真10-0)1936 Lincoln Zephyr V12 4de Sedan(2004-01 ブリジストン・ショールーム/国分寺)
「リンカーン」は1930年代「パッカード」「キャディラック」などと並び大型高級車の代表的存在だったが、不況の中各社が格下げ車種で売り上げを確保する中で1936年「リンカーン・ゼファー」を発表した。この車はリンカーンの販売ルートで売られたが、実質はリンカーンの普及版というよりは、フォードのデラックス版プラスαといった存在だった。4384cc V12気筒エンジンといってもフォードのV8をV12に増やした程度の平凡なもので、価格も大型「Kシリーズ」の4~5000ドルに対し1275~1320ドルと段違いに安く、日本では大型リンカーンの顧客に配慮して「リンカーン」とは区別して「リンコン・ゼファー」と呼んだ、と何かで読んだ記憶がある。「コンチネンタル」のベースとなったといわれるのが「リンカーン・ゼファー」だ。写真の車は戦前からブリジストンの石橋幹一郎氏が使用していたもので、レストアに際しては当時のタイヤが手に入らず、アメリカのファイアストーンでオリジナルタイヤのパターンを型から起こして造らせたと伺った。参考に発売当時の日本国内用カタログの一部を掲載した。
式場壮吉の持ち込んだ「ポルシェ904」にあっけなく敗れてしまった復讐戦がこの ..
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(7)<リンカーン・コンチネンタル>(米)
「コンチネンタル」という言葉は、島国イギリスから見たヨーロッパ大陸のことだが、自動車に関しては、広いヨーロッパ大陸を高速で走るという意味で、現代の「GTカー(グランド・ツーリングカー)」と同じように考えられる。もともとは1931年頃ロールスロイス・ファンタムⅡの圧縮比を高め、大径ジェットをもったキャブレターで軽くチューニングされた大陸旅行用の車に付けられた名前で、これが後年エドセル・フォードによってデザインされたリンカーン・ゼファーのスペシャル・ボディに付けられ、ついにはシリーズ名として正式に採用されることになる。
(写真09-7a) 1956 Connaught C (2000-05 モナコ)
写真の場所はモナコ市内で、テレビのF1中継でよく映し出される最終コーナーのスタンドを出たすぐ後ろの道路だ。うしろの崖は堅い岩でできているが、実はモナコは全部が岩の上に乗っているらしく、岬の向うへ続くトンネルも堅い岩盤を素掘りしただけのものだったし、ホテルの窓から見える裏山も岩山だった。
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なにせ式場壮吉さん(※注1)とシェルビー・アメリカン(※注2)を訪ねてい ..
1938年ヨーロッパ旅行から帰ってきたエドセル・フォードは、自身のパーソナルカー構想を指示、翌1939年2月完成したのはリンカー・ゼファーのシャシーにエドセルのアイデアを具体化した素晴らしいプロポーションを持ったカブリオレだった。この車は周りで大評判となり同じ車を造ってほしいという注文が200件を超えた。そこで1940年からゼファーの生産ラインを使って市販車が生産された。最初の年は「ゼファー・コンチネンタル」と呼ばれ、まだ「コンチネンタル」として独立していない。この年クーペ54台、カブリオレ350台が造られた。写真のタウンカーはカタログモデルではなく、建築家フランク・ロイド・ライトがカブリオレをカスタマイズしたもの。
BタイプのF1バージョンが「4シリーズ」で、この車がイギリスで注目されるのは
トニー・ブルックスという歯科医を目指す若い新人ドライバーがマセラティを抑えて堂々優勝してしまったからだ。この年のグランプリ・タイトル戦に「コンノート」は第6戦「イギリスGP」に2台出走したが完走できなかった。最終第7戦が9月11日で終わり、そのあと10月23日シチリア島で開かれた「シラクーザGP」はノンタイトルではあったが、突然優勝が転がり込み、ここ数年啼かず飛ばずのイギリス・レーシング界にとっては、大相撲で日本人が優勝したような久々の大快挙だったに違いない。それを記念してこの車は「ザ・シラクーザ」と呼ばれる。
多分、式場壮吉さんの427コブラロードスターをモデルにしたとおぼしきモデル。
1964年、日本は高度経済成長の真っ只中で、東京オリンピックの年です。5月、初夏には第2回日本グランプリが鈴鹿サーキットで開かれた。若者向けの週刊誌『平凡パンチ』が創刊され、式場壮吉駆るポルシェ904と、生沢徹のプリンス・スカイライン2000GTの対決で、自動車レースに日本中の若者が熱狂します。日本にモータリゼーションが生まれ、日本中が自動車に夢中になったんですねぇ。
1941年からは「コンチネンタル」の扱いがシリーズ名から「ゼファー」と同格の車名に格上げされた。外見上は波切り型のグリルの外縁にフレームが付き、フェンダー上にサイドランプがついた。エドセルは素晴らしい外見に仕上がったこの車に上級の「Kシリーズ」に使われているV12 6781ccを積んでハイパフォーマンス・カーを目指すことを主張したが実現せず、性能的にはゼファー並みの平凡な車のままだった。コンチネンタルはこの年クーペ850台、カブリオレ400台が造られた。
日本では式場壮吉選手が生沢徹選手のスカイラインGTと演じた第2回日本 ..
映画では「90日でフェラーリを倒す」とシェルビーがマイルズにいっていますが、実際にはかないませんでした。63年5月にフェラーリとの買収話に決裂したフォードは、単独でル・マンに出場することを決め、翌64年にフォードGT、通称フォードGT40で、初めてル・マン24時間レースの舞台、サルテ・サーキットに乗り込みます。そして、結局、レースの序盤で速さは見せたものの、出場した3台すべてトラブルでリタイヤし、フェラーリのル・マン5連覇を許してしまいます。
その理不尽な要求は、そもそもヘンリー2世から出ているわけですけれど、ともかく、シェルビーとマイルズはレースに勝ちたい、レースに勝って、自分のすごさを世界に見せつけたい。別にフォードを売りたいわけではありません。フォードの連中がレースに勝ちたいのは、レースに勝ってクルマを売るためです。そのために、ヘンリー2世はお金をじゃぶじゃぶつかった。何百万ドルと。これは超大国アメリカがヨーロッパのレースに侵攻した物語でもあるのです。
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「コンノート」という名前は日本では殆ど知る人がない。もし知っているとすれば1950年代の「F1」に興味のある人か、ミニチュアカーのコレクターくらいだろう。第2次大戦後1940年代の英国は緊縮財政を敷いていたから物資が欠乏し、車を売りたくても売る車がないような状態だった。コンノートはF1活動を始める前の1948年、「リー・フランシス」をベースにしたスポーツカー「L2」を6台作っている。F1(F2)には1952年から59年まで活動し最高位は1956年イタリアGPの3位止まりだが、小規模コンストラクターとしてマセラティーなどの大メーカーと互角?に戦ったから、イギリスでは人気が高かった。(ノンタイトルではGPで1度だけ優勝している)
モータースポーツ草創期の名ドライバーだった式場壮吉(しきば・そうきち)さんが16日に亡くなっていたことが19日、分かった。77歳だった。
映画に出てくるフォードの会長のヘンリー・フォード2世は、単なる3代目の、エバったボンボンでしたが、実際のヘンリー2世はそうではありません。1917年生まれのこのひとは、おとうさんのエドセルが第二次大戦のさなかにがんで亡くなり、ヘンリー、フォード・モーターの創業者ですね、おじいさんは80歳を過ぎて高齢で心許ないいうんで、海軍から呼び戻されて28歳でフォードのトップを引き継いだ。このとき、会社はボロボロで倒産寸前。ヘンリー2世はそれを見事に見事に立て直して、そしてもっともっと会社を大きくしようと思って、グローバリゼーションを推進したんです。ヘンリー2世はヨーロッパでフォードを売るために、フェラーリを会社ごと買おうとさえした、スケールの大きな大きな経営者、ビジネスマンでした。
Q3-T9/26 式場壮吉自動車評論集01 現代のスーパーカーとスポーツカー 2007年
この車を造ったアイゼンハス・ホースレス・ヴィークル社という会社は1904年から1908年まで5年間しか存在しなかった殆ど知られないメーカーだが、1つだけ面白い仕掛けがあるので取り上げた。それは搭載されていた3気筒エンジンで、3気筒が珍しいのではなく、内2気筒が4ストローク(101.6×101.6)、残りの1気筒は2ストローク(177.8×101.6)という組み合わせになっている。4ストローク側の排気はそのまま2ストロークの吸気となり、燃焼効率の悪い排ガスは点火すれば再燃焼するので多少の馬力向上となる。また4ストロークの爆発のインターバルに2ストロークはもう1度爆発しエンジンの回転もよりスムースになる、しかも再燃焼は結果的には排ガスの浄化にも貢献する、とここまで考えていたかは判らないがとにかく面白い発想だ。
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伝説のACコブラは横浜で生き続けてるぞ! | WILDMANS BLOG
初代の「コンチネンタル」は1940年から戦後の1948年まで造られ続けたが、その後しばらく空白が続いていた。ファンからは復活を望む声が多かったが、それに応えて「コンチネンタル・デヴィジョン」が新設され1955年10月発表されたのが新世代の「コンチネンタル・マークⅡ」だ。そのデザインの基本理念は「マークⅠ」(初代コンチネンタル)のプロポーションを忠実に守り、シンプルで単純の中に美しさを求めることだった。そして、それは見事に実現され、オーバー・デコレーション真っ只中のアメリカ車のなかに一服の清涼剤として清々しさを与えた。「マークⅠ」ではエンジンに不満があったが、マークⅡではリンカーンと同じV8 6035cc 285hpが搭載され、外観に相応しい実力もそなえている。最良の素材と最善の技術で丁寧に作り上げられた車のお値段は、クーペが('56) 9966ドル,('57) 9695ドル、コンバーチブル('57)10000ドルだった。同じ年のキャディラック60スペシャルの6019ドルに較べかなり高価だが、お金があったら買いた~い! 2年間で2996台造られたが全く同じものでモデルチェンジはされなかった。何処から見ても破たんのない美しさに惹かれ6枚も載せてしまった。
43周年のミニカーコレクション、第9位発表& AC COBRA 427
アメリカのフォード社は1950年代初めには各国にフォードを名乗る独立した子会社を持っていた。「イギリス・フォード」、「ドイツ・フォード」「フランス・フォード」などでそれぞれが本社の影響を受けつつも、独自に開発したモデルを製造していた。(日本フォードは組み立て工場で独自のモデルはなかった)この車は今回確認するまではマーキュリー・コメットのカスタム・ボディだと勘違いしていた。しかし実は今は亡きフランス・フォード(1958年以降シムカとなる)の「ヴデット」をベースにしたヴァリエーションだった。
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映画のなかに登場するACコブラ、またはシェルビー・コブラ。 ..
アメリカ車の通例として毎年モデルチェンジが行われ、この年からフルサイズ・モデルとは全く関係ない独自のグリル・デザインが与えられた。場所は虎の門の交差点近くにあったフォード系ディーラー「ニューエンパイア・モータース」の前で、リンカーン、マーキュリー、フォードの看板が見えるが、ここでは最新モデルが見られるので土曜日の午後仕事が終わってからよく足を運んだ場所だ。(僕が現役だったころは週休2日制になる前で、土曜日は半日仕事をしていた。)
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エランのACコブラ・シェルビー・カーマガジン・コブラ427・フォードレーシングに関するカスタム事例 ..
1960年誕生したてのマーキュリー版コンパクトカー「コメット」で、エンジンの6気筒 2364cc は、フルサイズのマーキュリー・モンテレー5110cc、モントクレア7043ccに較べれば、半分以下、1/3以下なのでアメリカとしてはずいぶん小さいと感じる排気量だ。ホイールベースの114インチは約3010ミリで、初代トヨペットクラウンの2530ミリに較べればかなり大きい。生まれたての「コメット」のグリルはフルサイズの凹型曲面モチーフから転用したものだ。場所は虎の門病院の前で、隣がアメリカ大使館なので最新のアメリカ車を見つけるには絶好の場所だった。
コブラとかいろいろな車に似ているが、それとも彼らが真似したの ..
1958年は大モデル・チェンジの年に当たり、高価で思ったように売れ行きが伸びなかった「コンチネンタル・マークⅡ」は製造中止となった。その代り「リンカーン・コンチネンタル・マークⅢ」という最上位のシリーズ名として名前だけは残った。しかしグリルが変わりインテリアを高級化しても普通のリンカーンに変わりはなかった。
1/43 AC COBRA 427 1966 Green(限定品)【SKB43013】
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(3)<コメット> (米・マーキュリー)1960~
1903年に創立されたフォード・モーター社のラインアップは1960年時点では上から「リンカーン」「マーキュリー」「フォード」となっていた。創立者のヘンリー・フォードは頑固に実用一点張りでT型を造り続けて来たが、1922年息子のエドセルの意見を入れて高級車「リンカーン」を買収し、高級車と大衆車の2本立てとなった。しかし1930年代になるとライバルのGMは「ビュイック」「オールズモビル」「ポンティアック」、クライスラーは「デソート」「ダッジ」、その他独立系でも「ナッシュ」、「ハドソン」、「スチュードベーカー」など、中級車クラスが市場を占める割合が大きくなった。出遅れたフォードには追いつくために適当な買収先が見つからなかったのか、1938年新しく創設されたのが「マーキュリー」で、戦後の1949 年専用のボディが提供されるまではフォードと同じスタイルに一回り大きいエンジンを積んだものだった。しかし1950年代に入ると大型高級化が進み、大衆車フォードの兄貴分だったマーキュリーはいつの間にか高級車リンカーンの弟分と化した。1960年前後になると大きくなりすぎたことへの反省から各社から1930年代に近いサイズに小型化された、いわゆる「コンパクトカー」が発売され、フォードは1959年から「ファルコン」が投入され、翌1960年からマーキュリー」には「コメット」が誕生した。
AC コブラ 427は1965年のロンドンモーターショーでデビューしました。 英国のAC ..
そして、戦争が終わってからしばらくしてマイルズはアメリカのカリフォルニアに移住して、カリフォルニアのレースに、MGいうイギリスのスポーツカーを自分で改造して出場して、連戦連勝、地元では有名な存在になっていた。マイルズは55年にMGのワークスでル・マンに出ているんですね。でも、このときは12位。国際的な知名度を得るほどには成功していないんですね。
M-BASE エムベース | 60年代、街角で見たヨーロッパ車
この年もリンカーンの最上位シリーズに「コンチネンタル・マークV」として名前が残った。この車を撮影したとき降りてきたドライバーに写真が欲しいと言われて後で送った記憶がある。